今回は演奏会の話。
・・・
夕方まで天気が悪かったが、サントリー・ホールで久しぶりに都響の演奏会だ。
インバル指揮のヴェーベルン「管弦楽のための6つの小品」とブルックナーの4番である。
インバル/都響は「マーラー・チクルス」での一定のイメージがあるとはいえ、この二人の作曲家の作品をどう演奏するのかちょっとわからない。
今回は、偶然直前に改めてフランスの指揮者シャルル・ミュンシュの本を読んで出かけたのが幸いしただろう。座席は今日はオーケストラの後ろでインバルの指揮をじっくり見ることができたのだが、1曲目のヴェーベルンは作品が内包している作者自身の「意識」にスポットを当てた非常に優れた演奏だった。楽曲解説にはこの作品は「ごく個人的な出来事についての時間的経過による気持ちの変化」ということが書いてあった。それを、各楽器群の使い分けを組み合わせることで表現して全曲を構成している。・・・その様子は、心情をポツリポツリと語る・紡ぐかのようである。これは、響きの空間的な広がりというよりは、「ヴェーベルンの脳の中の状態」というような様子に聞こえる。これも、ある種の「ロマン主義」の形ということもできる、ということか・・。
*ここで「ロマン派」についてもう一度確認しておくが、この「時代様式概念としてのロマン派」は、「中世の空想的騎士物語を意味した古いフランス語「romant ロマン」に由来する。(このブログの読者は知っているのだが念のために書いておくが「ローマ、ローマン派」ではない。) これを18世紀末のドイツ文芸において「古代ギリシャ・ローマ芸術を理想とした『普遍的性格』を特色とした『古典主義』」に反発して、「合理的形式・秩序」を排して豊かな想像を元に主観的・劇的な文芸を目指した文芸運動の名称として打ち出した。とはいえ、ギリシャ・ローマを基礎とした古典形式の各要素をロマン派はすべて踏襲しているので、この二つの派は一つの時代様式の二つの局面ということもできる。
続くブルックナーは第4番「ロマンティック」ノヴァーク版第1稿である。東京都響の楽曲解説によると、近年一般に演奏される改訂版よりもより激しく起伏に富んだものということで、インバルはあえてこの版を「多少手を加えて」演奏する、とのことだった。このことについては、数日前に読んだミュンシュの書籍に「場合によってはスコアに書かれている箇所をやむをえずごくわずかカットすることがある。そうすることで楽曲が活き活きとすることがあるのだ。」という含蓄に富んだ言葉を覚えていたので納得できる。
そして本番だが、聞き覚えのある冒頭の部分が始められ、少し進んだ部分、ここからかつてこの曲から聞き覚えのないようなさまざまな表情が現れ始めた。これはノヴァーク版第1稿に書かれている状態なのかもしれないが、たとえばかつて聴いたブラームスやマーラーの作品において感嘆した「インバルの指揮」による「ニンフの魔法」が今夜も開いた、ということかもしれない。「音楽がどこに向かっていくのか、その準備には何が必要か」という言葉は、斎藤秀雄先生も言っていた言葉である。指揮を正面から見ていて、インバルもやはりそのことを非常に楽員に求めていることがわかる。そして、都響は見事にそれに応えていた。ブルックナー特有の「長く続くフォルテの、同じフレーズの繰り返し」の部分も、数小節ごとにあちこちから違う表情が次々と浮き上がってくる。そして、その先にあるブルックナー特有のあのユニゾンのフレーズに非常に大きな意味が出現する。この「万華鏡的な色彩の変化の表現」と、それが向かうところにある「言葉」の浮き彫り、だ。これがインバルの音楽である。かつてブラームスの第2番でも、あのスコアから同じように「根底に秘そむブラームスの色彩の変化と言葉」を導き出すことができることに非常に驚いた。今夜のブルックナーの第4番も同じだった。まるで「楽劇」のように聞こえる。
そして、この表現に重要な右手と左手、である(ミュンシュも書いているが)。これほど「がっちり、しかし柔軟、多彩」な指揮ができる人物は、最近非常に少なくなってきていることがわかる。それは、パリでの演奏会に出演する有名・無名な指揮者を見ているとわかる。今日、久しぶりに都響/インバルの演奏を聴いて、非常にホッとした、というか、「これこそ演奏会だ」と救われたような気分だった。
この20年ほどの間にヨーロッパで多数の演奏会を聴いてきたが、こうして考えてみると、インバルは現在非常に重要な指揮者であり、同時に「都響」はもしかしたら世界のトップ5、は言い過ぎかもしれないが、そのくらいにランクされるプロ・オーケストラであることを確信した。
(たとえばミラノ管弦楽団、イタリアに遠征してきたシカゴ響なども含めて様々なオーケストラを聞いてきた。ベルリンフィルはコンディションが悪かったのかもしれない。などなど多数あるが、どれも都響に比べると、あちこちで危なっかしいフラフラとした状態になる「ビシッと決まらない演奏」の多いこと。その「原因」はいろいろとあるだろう。これは、このブログを読むベテランである皆様はすでに知っていることと思うが。)
ひとつは、やはり「指揮者」である。
今日のブルックナーは、1曲目のヴェーベルンに対して「一人の人物の持つ『脳に広がる広大な無限に近い空間意識」というものが感じられる。(私は常に「キューブリックの『2001 Space Odyssey』」の、あの素晴らしい映像世界を思い出してしまうのだが。)
それを、常にインバルはスコアから感じ取り、表現できる。
最近の海外オーケストラは、なにか「バロック」「室内楽的アプローチ」という「呪文」にかかっているのか、「異常な状態に近い超微音」にこだわっていて、そこに「指揮者の小ささ」が浮き彫りにされるのだが(指揮者の「大きさ」は感じない)、そのために「突然の広大な和音の広がり」の部分でオーケストラの気持ちが「一気に力が抜けて解放されて全開」せずにショボく終わってしまう演奏が非常に多いのだ。こうした演奏に接すると冷水を浴びせられたように一気に醒めてしまう。
「スコアに生命を吹き込む」ことができる指揮者、とオーケストラ ・・・
Claude=François Grumiaux
Create Your Own Website With Webador